京都ひろくに屋通信5月号
新緑が美しい季節になってきました。残念ながら今年も京都三大祭の一つ、葵祭の「路頭の儀」(行列巡行)は中止となりました。御所から出発する雅な姿の行列はひと時、平安時代へといざなってくれるようで毎年楽しみにしていました。来年こそは拝見したいものです。
御所九條邸跡(茶室の拾翠亭と厳島神社)
御所の南側、丸太町通りを通勤路として歩いていたことがあります。そのときに、通り沿いの住居である町屋の前の歩道を、着物姿で掃き掃除をされている老紳士をほぼ毎日お見掛けしました。掃き集めたゴミを塵取り代わりの新聞紙で受け取りゴミ箱に捨てる。その横にはきっちりと畳まれた新聞紙の束が。縦のものを横にもしない、いかにもな頑固おやじの風貌からは想像もできない几帳面な一面が感じ取られ、そのギャップが気になる存在へとなっていきました。
町屋の2階の物干し台の竿にはステテコがはためいていて、昭和を絵にかいたような景色が広がっていました。又、夕暮れ時は凹凸のあるガラス窓に西日が映り込み、それはそれは美しい京都を見せてくれていました。
ある時からその老紳士の姿をお見掛けしなくなり、住居となる町屋の雨戸も開かれない時が多くなってきました。月日と共に少しずつ朽ちていく家を見るのはとても悲しいことでした。
随分後になって、その老紳士が京都大学名誉教授でチベット史研究の第一人者、佐藤 長(さとう ひさし)(*1)氏と知り、いかにも、と腑に落ちた覚えがあります。その佐藤長氏が亡くなられる前に長年親交のあった瀬戸内寂聴さんに住居である町屋を託されたそうです。
譲渡されたはいいが、しばらく空き家になっていたのでかなり傷んでいたとのこと。折角だからとその町屋が建てられた明治時代当時のままの姿に修復された瀬戸内さん。町屋の名称をチベット仏教の聖地「ラサ」にちなんで「羅紗庵」と名付けいろんな催しを行うサロンのような場所として使われていました。昨年、瀬戸内寂聴さんも亡くなられて「羅紗庵」(*2)もひっそりと扉が閉まったままで寂しい限りです。
羅紗庵
瀬戸内寂聴さんの誕生日は葵祭の日、5月15日。縁あって譲り受けた町屋は御所の堺町御門の真ん前にあります。葵祭の日には羅紗庵の2階の特等席で堺町御門から出てくる「路頭の儀」(行列巡行)を楽しそうに見物されていたそうです。
*1:佐藤 長(さとう ひさし、1913年(大正2年) - 2008年(平成20年)は、日本の歴史学者、チベット学者。古代チベット史を研究。京都大学名誉教授
*2:羅紗庵(らさあん) 京都市中京区堺町通丸太町角
*非公開
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