京都ひろくに屋通信2月号

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日本映画発祥の地「京都」
コロナ禍の影響で、移動が難しくなってきている今日この頃、皆様どのようにお過ごしでしょうか。 映画を見て旅気分を味わってみる、という過ごし方は如何でしょう?今は少なくなりましたがその昔、京都には多くの映画撮影所がありました。”日本のハリウッド”とまで呼ばれていた太秦は 材木屋が多くセット作りに適していたとか。また、多彩なロケーションの地に恵まれたことも大きな理由のひとつでしょう。 *1897年日本で初めて映画の試写実験に成功した場所が京都電燈株式会社の中庭(元立誠小学校跡)でした。

東映太秦映画村

東映太秦映画村

太秦にある東映太秦映画村。コロナ禍以前は多くの観光バスが停まり大勢の人で賑わっていましたが、現在は残念ながら人はまばらです。

映画村近くの広隆寺は時代劇の影響場所

映画村近くの広隆寺は時代劇の影響場所としてよく使用されています。 東映太秦映画村HP
京都偉人探訪

牧野省三
牧野省三
(1878-1929)

さて前回告知させて頂いておりました、京都にゆかりのある偉人の足跡を巡る旅。第1回目は日本映画界に大きく貢献した牧野省三氏を取り上げてみました。 「日本映画の父」牧野省三は京都に生まれました。 義太夫を教えていた母の影響で芸事に親しみ芝居に興味を持つようになり1901年、母と共に西陣に劇場「千本座」を開場し経営にあたる。「千本座」を活動写真興行に貸していたこともあり、 映画製作を依頼され1908年、最初の映画「本能寺合戦」を製作。 その後「千本座」の座頭となった尾上松之助を起用した映画は爆発的な人気を博した。 紆余曲折を経て、1925年(大正14年)マキノ・プロダクションを設立。 映画製作のモットーに「1.スジ(シナリオ)、2.ヌケ(撮影技術)、3.ドウサ(演技)」の三大原則をあげ、 シナリオを特に重視して多くの脚本家を育て上げました。 また、新しいものを取り入れる力やプロデュース力も伴って手がけた映画は300本以上にもなります。 牧野省三の長男、マキノ雅弘は撮影所を引き継ぎ、映画監督として日本映画の黄金時代を築きました。 「映画は目で見える部分を30%にして残りの70%は観客に想像力を呼び起こさせろ、それこそ映画の魅力だ」と言われています。 想像力を掻き立てられる奥深く余韻のある「町」京都。何度でも訪れたくなる京都の魅力と共通点がありそうです。

東映京都撮影所
映画村裏手(西側)には現在の撮影所、
「東映京都撮影所」があります。

撮影所駅の風景
駅の名前にもなっているとおり、
すぐそばに撮影所があります

そんな京都には撮影の合間に俳優・女優さんが好んで通ったお店があります。 寺町通にあるSMART(スマート)珈琲店のホットケーキは美空ひばりさんの好物だったとか。

COFFEE SMART(2021年2月21日撮影)
COFFEE SMART(2021年2月21日撮影)

太秦にある「きくや」は撮影スタッフや俳優さん御用達の食堂です。

食堂:きくや (2021年2月23日撮影)
食堂:きくや (2021年2月23日撮影)

また、映画の撮影に欠かせないのがロケ弁。ある時、俳優の藤田まことさんの好みの物を詰め合わせたお弁当を作ってほしい、と太秦の撮影所から注文が入りました。 試行錯誤して作り上げたお弁当を、藤田まことさんが大いに気に入られて、後に太秦ロケ弁として人気の定番メニューとなったそうです。 こういう人たちに支えられて映画は作られているんだと感じます。 *太秦ロケ弁は穂久彩で購入できます。 穂久彩HP

ロケ弁
ロケ弁

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博國屋の手元供養

博國屋の手元供養品

上記でご紹介した手元供養品以外にも様々なタイプをご用意しています。ぜひご覧ください。

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